甘くて、儚くて、幻のようなその夜は、起きたまま見た夢のようだった。



   パンプキンパイ



その日は何故だか眠れなかった。ゴロゴロと何度目かの寝返りを打った後、少年は諦めたようにベッドから起き上がる。
家の中は、静まり返ってきた。外からも車のかすかな音しか聞こえてこない。
まるでここに自分しかいないような心地がして、少年は少しだけ震えた。

少年はベッドから降りて、そろそろと歩き出した。


「……散歩しよう」


なるべく音を立てないように、家の外へと出る。
その背中を見送る者は、いなかった。





真夜中の町は、昼間の喧騒が嘘のようにしんとした空気に包まれていた。
その中を少年は歩く。頭上には、今日は曇っているのかいつもはそこにある星は今日は見えない。
今の季節は春のはずだが、あのポカポカとした温かな風も吹いてはいない。
昼の町と夜の町は、まったく別のものだった。


「どこにいこうかな」


小さく呟いてから、少年は考える。何となく外に出てきたのはいいが、目的地は思いつかなかった。
ただ、どこに行くわけでもなく真っ直ぐ歩くだけだ。

その時、少年の目の前を、小さなものがフワリと横切った。


「これは……」


慌てて両手で受け止める。淡い桜色のそれは、ゆっくりと少年の手の中に収まった。
それと同じものが自分の周りをたくさん舞っている事に、やっと少年は気が付いた。


「……桜、だ」


どこから運ばれてきているのか、桜の花びらは次から次に少年の横を前を通り過ぎていく。
そういえば今年はまだ花見をしていないな、と少年は思い出した。


「もう、散っちゃってるんだ……」


少年は急に勿体無く思った。
学校の敷地内にも、登校途中にも、近所にももちろん桜は咲いている。友人とも綺麗だ綺麗だと言い合った。
しかし、花を見るために出かける事はなかった。それが、とても勿体無いような気がしたのだ。


「そうだ、花見をしよう」


思いついた少年は、さっそく桜のたくさん咲いているはずの公園へと足を向けた。
家からも近い場所なのでちょうどいい。
宙を舞う花びらも、まるで少年は公園へと導いているように正面からちらちらと降ってきていた。





公園の端に立つ灯りに照らされた数本の桜は、まさに今、散り時であった。
このままだと桜で公園が埋まってしまうんじゃないかというほど、花びらは地面へと降り積もっていた。
こんなに桜の散る所は初めて見る。
少年はしばし公園の入り口で立ち尽くした。


「……すごい……」


かすかな光に照らされた夜桜は、純白の雪の木のようだった。
絵本の中のような非現実な光景に、少年は目を奪われる。そのままフラフラと公園の中に入った。
吸い込まれるように桜の木の根元にやってきた少年は、ふと木を見上げた。
その瞬間。


バッサア!

「ぎゃあっ!」


少年は悲鳴を上げて倒れこんだ。いきなり頭上から大量の花びらが落ちてきたのだ。
そのまま少年は桜色に埋もれてしまう。
口の中に入った花びらを懸命に吐き出していると、どこかで聞いたむかつくほどのんびりとした声が降ってきた。


「とりっくおあとりーと」
「季節違うよ!」


少年は思わず叫んだ。
立ち上がって頭の上や肩をバシバシ叩いていると、目の前にスタッと飛び降りてくる黒い人影。
最初から誰だか分かっていた少年は、思いっきり睨みつけた。


「いきなり何するんだよ死神!」
「いや、君が来るのが見えたから、しかけてやろうと思って」
「大体なんでこんな時間にこんな所に……」


言いながら、それは自分も同じだと少年は気付いた。
つっこまれるかと思ったが、死神は真顔でこう答えた。


「花見に来た」
「……え?」
「ほら、食料も」


取り出してきたのは、今日のおやつだったパンプキンパイだった。最初の言葉はここから来ていたらしい。
少年は桜の木を見上げる死神を見た。


「……1人で?」
「夜桜を見たくなってな」
「ふーん……」


何だかずるいなあと少年は思った。
もし少年がこうやってここに来なかったら、死神はこの夜桜を独り占めするところだったのだ。ずるいではないか。
今日こうやって起きて、散歩に出てきてよかった。

そこで少年はあれ?と首をかしげた。


「僕は眠れないからこうやって出てきたわけで起きてよかったとかそれは何かが違うわけで」
「何かブツブツ言っているな」
「何だか矛盾した気持ちが」


複雑な顔をした少年に、死神はむしゃむしゃとパンプキンパイを食べながら微笑みかけた。


「まあいいじゃないか。今日は桜を見ながらパンプキンパイを食べよう」
「それも何だか矛盾している気分になるよ……」


なおも呟きながら少年はパンプキンパイを受け取る。
口に入れれば、カボチャの甘い味が広がった。
それが何故だか桜の淡い色に合っているような気持ちになって、少年は少しだけ笑ってみせる。


「珍しいね、プリンはないんだ?」
「うん、ちょうど無かった……明日買ってこなければ」
「すぐに食べるからだよ」


きっとこの桜は、明日には全て散ってしまっているだろう。
こうやって毎年毎年、桜色の花は生まれ変わっているのだ。


「最期というのは、どうしてこうも美しいんだろうな」


死神の言葉に少年は答えなかった。
それは問いかけの形をしていたが、ただ言葉として落ちてしまった心の呟きだったから。



きっとこれからの春は、桜を見れば、パンプキンパイを思い出すのだろう。



次の日の朝、少年は桜の花びらをくっつけたまま学校に行った。

05/04/12




 

 

 





















桜が書きたかったんです。