教わった瞬間、一番最初に思い浮かんだのがそれだった。



   不定形



授業の終わり。数人の生徒が教室から飛び出していく。しかし大体のものは息をついて次の授業の支度に取り掛かる。
その中で、静かに自分の席に座りなおしたものがいた。少年だ。


「おーい、どした?」


友人が声をかけるが、少年の目線はずっと下を向いている。何故だか非常に難しい表情だ。
友人は首を捻った。


「……何かあったのか?」


しかし何かあったとすれば、授業中しか考えられない。が、友人は今回の授業に何も感じなかった。
それとも、少年の気になることがあったのだろうか。
すると少年がノートを見つめながらぼそりと呟いた。


「……不定形」
「は?」
「形の一定しない事……1つに限定しない事……」


少年がブツブツ呟いているのは、さっきの授業で習ったものだ。
しかし、別に気になるほどのことでもない。かくいう友人はもう授業の内容半分を忘れてしまっている。
いよいよ友人は怪訝そうな顔になった。


「おい、お前大丈夫か?頭打ったか?熱か?」
「だっておかしいんだよ」
「おっ」


何がだってなのかは分からないが、顔をあげてきた少年に友人は声をあげた。
少年は難しい、納得のいかないような表情で友人を見る。


「たったそれだけなのに、おかしいんだ」
「何がおかしいんだよ」
「どうしてあれが出てくるんだよ」
「なあ、お前俺と会話する気ないだろ」


呆れて友人がそう言うと、少年は初めて友人に気が付いたようにハッとして口を開けた。


「何?」
「……いや、何でもない。お前って昔からそうだもんな」
「え、何?何か話しかけてきたでしょ」
「俺もう諦めたからいいの。お前は好きなだけ考え込んでろ」


首を傾げる少年の目の前で、友人は少年の教科書と筆箱をひったくって歩き出した。もちろん、自分の分も持って。
次の授業がある教室にそろそろ行かなければ2人は遅刻してしまう。
友人はその事実に少年が気付いていない事を知っていたので、自分が先に歩き出したのだ。


「うわ、ちょっと待てよ!」
「はいはい」


慌てて付いてくる少年をチラッと見やって、友人は思った。
こいつ、普段は感心するほど平凡な人間なのに、時々変な風になる。今も隣を歩きながら、また変なことを考えている。
まあ、もっと変な奴がこいつの近くにいるが。


「せめて、あれにはなるなよな……」
「……え、何?」
「何でもない何でもない」


友人は、少年の行く末を複雑な気持ちで見守っていた。





授業で「不定形」という言葉を習った時、1つ、あるものが思い浮かんだ。無意識だった。
友人が複雑そうに見守っている間、少年はその事ばかりを考えていた。


「たった一言なのに」


少年は家に帰りながらまだ考えていた。納得がいかない。何故だ。
答えは見つからないまま、歩みだけが先へと進む。その歩みがふいに止まった。


「……うわっ」


いきなり目の前を横切っていった物体に少年は驚いて顔をあげる。
今までずっと下を向いていたので、いつの間にかいつもの橋の所まで来ていた事にもっと驚く。
そういえば、さっきの物体は何だ。辺りを見回せば、それはあった。

わずかな風にも流されてしまう、脆く丸い物体。


「……しゃぼん玉?」


少年の声はどこか呆けたように響いた。この橋はあまり人が多くない。そんな橋の上に何故しゃぼん玉が?
答えは、1つしかない。


「おかえり」


ぷーと丸いそれを膨らませながら、呆れるほど当たり前に死神がそこにいた。
辺りにはしゃぼん玉が大量に漂っている。今日は風が少ないからだろう。
目の前を飛び回る大小の玉を眺めながら、少年はただ1つだけ尋ねた。


「……楽しい?」
「うむ」


本当に楽しそうに死神は頷く。しゃぼん玉なんて、いつ頃しただろう。覚えていない。
しかし目の前のこの男は何がそんなに楽しいのか、宙に浮かぶしゃぼん玉を眺めては満足そうに微笑んだ。
そしてまた息を吹き込んで玉を作る。ぷかぷかと玉が少年の横をすり抜けていく。


「何がそんなに楽しいのさ……」
「そうだな、要素はたくさんあるが、強いて言うなら」


しゃぼん液にストローを浸しながら、死神は言った。


「1つ1つ、形が一定しない所かな」
「……はあ?」


どこかで聞いた言葉だ。そうだ不定形だ不定形。そう考えて、少年は死神の言いたい事が分からずに眉をひそめる。
目に見えるそれらは、大きさこそ違えどどれも同じ丸型だ。これのどこが不定だ。


「どれもこれも丸いじゃん」
「いや、違うよ」
「どこが」
「中身が」


中身?
少年は思わず笑う所だった。しゃぼん玉に中身なんてあるわけ無い。
そう言ってやろうとした時、まるで狙ったかのように、1つのしゃぼん玉が少年の目の前にやって来る。
その中に見えたもの、それは、


「……うっ」


景色だった。向こう側が、こっち側が、あたかもしゃぼん玉の中に存在しているかのようにそこにある。
見渡せば、しゃぼん玉の中に入っているものは1つ1つ違っていた。
沈みかけた太陽の光に照らされながら宙を飛ぶ透明な玉は、その中身を様々な景色に変える。
玉1つでさえ、一定ではなかった。不定だった。


「違う……」
「だろう」


呻くように少年が言えば、死神はいつもどおり満足そうに微笑んだ。少年にはそれが勝ち誇った笑顔のように見えてムッとする。
そこで少年は、思い出していた。

不定形、一定しない事。限定しない事。変わり行く事。

それを聞いた時、自分は……。


「おお、こんな時間か。そろそろ帰るか」


気付けば死神は歩き出していた。その背中を少年は見つめる。
いつも変わらないおかしい奴。変わることの無い変な奴。なのに何故、死神を思い出していたんだろう。
どうしても分からない。


「……おかしいよ」


呟きながら、少年はしゃぼん玉を見た。
この玉と同じように中は変わっているとでもいうのだろうか。何だか違うような気がする。
いつも変わることの無い、不定の存在。


(矛盾してるし。ありえない)
「どうした?」


死神が振り返って少年を見た。その、いつもと変わらない顔を見て、少年はかぶりを振る。
とてつもなく難しい事のように思えた。そして次に、考えるべきことではないと感じた。


「何でもない、帰ろう」
「ん」


再び歩き出す死神に追いつくために、少年が少しだけ駆ける。その動きにしゃぼん玉たちはまたその中身を変える。
そのまま、空へと消えていった。


そうだ、別にどうでも良いことだ。だって、

何かが変わっていくとしても、変わらないものが確かに、あると思ったから。


いつもと同じ帰り道。いつもと同じように死神と並んで、いつもとは違う思いを胸に、少年は家路についた。

05/01/24




 

 

 




















友人は本当良い友人ですね。良い友人だけどどこか損してますね。そこが友人らしいですね。