周りは一面闇だった。


上も、
下も、
右も、
左も、
前も、
後ろも、
分からないほど。

自分が今立っているのか、寝ているのか、それすらも分からないほどの、暗闇。
目を閉じても開いても目の前に見えるのは黒しかない。


ただ分かる事は、自分が今どこかへ沈み込んでいるような、そんな感覚がすることだけ。



そんな中、かすかな声が聞こえる。



  ……ぁ……っ……き………



闇の向こう側から届くようなその声はよく聞こえない。

誰?何を言っているの?



  にん……で…る……どん……も……



だんだんと近づいているような、逆に遠ざかっているような。
それでもうっすらと、声は耳に入ってくる。
いつのまにか閉じていた目を開ければ、遠くの方に、闇よりも濃い闇があった。


なんだあれは?



  …んげん…い…のは……なき……?



闇が口をあけた。あの虚空を口、と表現するならば。


その無の空間は、こちらに向かって……にいと笑った。





  に ん げ ん で い る の は ど ん な き も ち  ?




















「っ!」


今度こそはっと目を開けたそこは、暗闇ではなかった。天井だった。
呼吸が苦しかった。夢から覚めたままの格好でぜいぜいと息をする。背中が冷たく感じるのは、汗をかいたからか。
ふう、と一回大きく息を吸ってから、ようやく起き上がる。
今の夢はなんだったのか。訳が分からなかったが、妙に怖かった。最後の言葉も。あれは何なのか。
ボケッとそこまで考えて、視線の隅っこにちらりと、こちらを見つめる瞳を発見する。
まさかそこに誰かいるとは思っていなかったので、びっくと飛び上がった。


「うぎゃっ!し、しししシロ!いっいるなら早く声かけてよ!」
「だってーあらしってばボーっとしてるんだものー。それよりおはよー!」
「……うんおはよう……」


元気良く声をかける少女、シロに、少年あらしは額の汗を拭いながら返事を返した。
上から下まで真っ白なシロの姿を見て、あの夢の闇がどこか遠くに消えてしまうように思えて、ほっと息をつく。
底のないあんな暗闇、初めて見た。
するとシロが少し眉を寄せながらあらしの顔を覗き込んできた。


「珍しくあらしが起きてこないから起こしにきたんだけどー、大丈夫ー?すっごく苦しそうだったわー」
「ああ、うん……何か変な夢を見て……」
「途中まであたしがお腹に乗っかってたからそれのせいかと思ったんだけどー」
「乗っかってたのか!乗っかってたのか途中まで!うなされるのは当然だよあの夢はシロのせいかよ!」


くわっと掴みかかると、シロはきゃあきゃあ言いながら逃げていった。まったく逃げ足だけは早い。
複雑な顔であらしがベッドからおりると、シロとは違う別な声がかかった。


「よっあらし!今日は珍しくお前の方が寝坊かよ!」
「ああクロおはよう……毎日起こしても起きないどこかの誰かよりはマシだと思うけど」
「今日もばっちり起こされたぜぎゃははは!」
「違うそこは威張るところじゃない!お前はそろそろ懲りろよ!」


部屋の入り口で愉快そうに笑うのは、シロと対照的な全身黒い青年クロだった。精神年齢は同じぐらいだろうが。
何だか一気に疲れたような気持ちになったあらしは、がっくりとうなだれた。


「何で起きたばっかりなのにこんな気分に……」
「まーまー今日は始まったばかりだぜ!もっと愉快に行こうぜ愉快に!」
「あーはいはい愉快にね」


万年愉快そうなクロを軽く流しながらあらしは部屋を出た。短い廊下をすぐに横切れば、そこはキッチンだった。
目の前に、後ろから愉快そうについてくる男と同じような笑顔の女性が立ちふさがって、思わず足を止めるあらし。


「まったく、うちの息子だけじゃなくあんたまでお寝坊さんなのかい?」
「や!あの今日はたまたまで……いや、すみません……」
「冗談よ冗談おほほほ。ほらっさっさと顔洗っておいで、ご飯は出来てるのよ」
「は、はーい」


思わずおりこうさんの返事をしてからあらしはそそくさと女性の脇を通り過ぎた。背後からすぐに口論が聞こえる。


「それにしてもあんたの寝坊癖はまだ治らないのかい!いい加減にしな!お仲間さんも困ってるだろ!」
「オレだって起きようと頑張ってんだよ!でも出来ないんだから仕方ねえだろ!」
「でもじゃないあんたの頑張りが足りないんだよ!もっと頑張りな!」
「だっ大体何であらしとオレの扱い違うんだよ!不公平だろーが!」
「あんたよりあの子の方が可愛いからに決まってるでしょ!」
「てってめえ実の息子目の前にしてそれ言うのか!ひいきしてんじゃねえぞクソババア!」
「おほほほどうやらよっぽどお仕置きして欲しいみたいだねえこの馬鹿息子はー!」
「ぎゃあああー!」


口論の次に聞こえてきた凄まじい騒音に、あらしは絶対に背後を振り向かなかった。
常々クロから恐ろしい人だと聞いていたが、確かに、恐ろしい。
同時に、とても温かい人だった。

外に出れば夜から明けた空が出迎えた。あらしは軽く伸びをする。
すると目の前を、何やら赤いバックを肩にかけた人が通り過ぎた。空中を移動している。


「郵便だよー……っと、あんた昨日来たっていう旅人さんか」
「あっどうも、えーっと……郵便屋さん?」
「そうそう。しかしクロもアイさんも、朝からよくやるねえ」


微笑ましく笑いながら、郵便屋は背中の黒い羽根を動かしてすぐにいなくなってしまった。アイさんとはさっきの女性の名だ。
何だやっぱりあれはしょっちゅうあることなのかとあらしは漠然と思いながら、郵便を家の中に置く。
黒い羽根。そう、彼は悪魔だった。あたりを見渡せば、そこらへんに黒い翼を持つ人が朝の挨拶を交わしている。

ここは、悪魔の住む地、地獄なのだ。





あらしは普通の旅人であった。数年前までは1人旅もしていた。
しかしその旅の途中で偶然悪魔と天使に会い、さらに人魚とオオカミ女を助けてしまった。
そうやって今は5人旅をしている。
悪魔はさっきの黒い青年クロ。天使はさっきの白い少女シロ。
後は、今日まだ顔を合わせていない人魚の青年ウミに、オオカミ女の華蓮。
まったく種族の違う5人だったが、出会った日から今日これまでずっと一緒に旅をしてきたのだった。

今目の前で、水道から流れる水を頭から遠慮なくざぶざぶ浴びているこの男も、その中の1人だ。


「……おっ、起きたのかあらし、おはよう。どうしたそんなところに突っ立って」
「おはようウミ……。いや、何か邪魔しちゃいけないような気がして」
「こんなに水を贅沢に使えるのは久しぶりだからな」


水分を失えば干からびてしまう人魚のウミは、それでもすぐにその場からどいてくれた。
これでようやくあらしも顔を洗うことが出来る。
冷たい水を顔にかければ、先ほどの夢が頭の中から完全に消えてなくなってしまったようだった。
隣には順番を待つようにウミが立ったままだ。まだ水を浴び足りないのか。


「しかし、クロの母親は話に聞いた以上の人だったな……」
「あ、ウミも思った?ウミのお母さんとはまた違う人だよね」
「うちの母はな……あの姉さん達の原型だからな……」


ウミが複雑そうな表情を作る。息子として思うところがあるのだろう。
彼の3人のそれぞれ個性的な姉達を思い浮かべて、あらしも少しだけ複雑になった。
あまり話したことはないが、あれを足したような性格なのだろうか。


「でもどっちも明るい人だよね」
「そうだな、浮き沈みが激しいというか」
「母親ってみんなそんなものなのかな」
「そうでもないかもしれないぞ。一般的には確かに、明るい母親っていうのが多いと思うが」


そこでふとウミは口をつぐんだ。タオルが無いので自分の腕で顔を拭うあらしをそっと見やる。
その表情は、挨拶を交わした時から何一つ変わってはいなかったが。

目の前の人間には、母と呼べるような存在はいない。


「いつまで顔洗ってるんですか水の無駄遣いですよ」
「ぎゃっ!」
「ごはっ!」


一瞬しんとした雰囲気の中に飛び込んできたのは、オオカミ女の華蓮だった。
ちなみに2人が悲鳴を上げたのは、その華蓮の手から放たれたタオルの威力に身を崩したからである。
たかがタオル、されどタオル。華蓮が投げれば武器にもなる。


「それと、顔を拭くのならタオルを使いなさい。行儀が悪いですよ。これだから教養の無い人は……」
「わ、分かってるよ!わざとらしくため息つかなくてもいいじゃんか!」


これ以上何か言われないようにそそくさと退散するあらし。
タオルの衝撃に出遅れたウミは、ちらとこちらを見た華蓮と目が合った。
犬と目が合ったら先に離してはならない、格下に見られてしまうからだと言っていたのは誰だったか。


「勝手に喋って勝手に気を使うんじゃありません。気にしていなかったものも気になってしまうじゃないですか」


結局逸らしたのは華蓮が先であったが、何故だかとても負けてしまったような気分のウミであった。
そういえば華蓮は犬じゃないオオカミだったと気が付いたのは、その少し後だったが。





あらしが家の中に戻ってきてみれば、そこにあったはずの朝食は綺麗さっぱりなくなっていた。


「うーんおかしいなー確かに結構な量のご飯が待ってるはずだと思ったんだけどなー」
「どうしたんだあらし、そんな遠い目をして戸口に突っ立って」


慌てるようにこちらに駆けて来たウミが怪訝そうな顔になるが、後ろから家の中を覗いてすぐに目を見開く。
すると、のんびりと歩いてきた華蓮がたった今思い出したようにぽんと手を打った。


「そうでした、シロさんに朝食全部食べられるから早く来なさいと言いに来たのでした」
「遅っ!」
「早く言ってよ!」
「まーそのタイミングじゃ即行で戻ってきても食べられちまってたぜ!」


いつの間にかそこに立ってたクロが呑気な笑い声を上げる。その手にはちゃんと自分の分の朝ごはんは確保しているようだった。
テーブルの上には空になったお皿と、満足げに微笑むシロがいるだけだ。


「えへへー美味しかったー!ごめんね2人ともー」
「まったく申し訳無さそうじゃない笑顔で謝られても!」
「トロイお前らが悪いんだよ!ぎゃははは!」
「な、なんで華蓮は冷静でいられるんだ?」


いくら普段からシロに甘い華蓮でも朝食が無い状況でこの落ち着いた様子は有り得ない。
動揺に少々どもりながらウミが尋ねれば、それはもう綺麗な笑みで華蓮は答えた。


「私はクロさんがキープした分を貰いますから」
「おっおい!誰がんな事言った!こいつはオレのもんだぞ!」


嫌な予感を感じ取ったクロが顔色を変えて手に持っていた生き残りを背後に隠す。
しかし華蓮と同じようにこちらに振り向いてきたあらしとウミの勢いを削ぐには少々遅すぎたようで。


「そうだよね遠慮なんかしてたらこの世の中生き残れないよね」
「そうです、朝食とは奪い取るものなんです」
「そ、そうだったのか、それなら頑張らなきゃ……」
「目据わらせながらこっち来んなよ!ち、ちっくしょー、こうなったら負けねえぞ!」
「勝ったらそのご飯もらえるのー?あたしもやるやるー!」


朝から乱闘が始まる5人を、クロの母アイはしょうがないという微笑を浮かべながら眺めていた。
その笑顔は、とても柔らかなものだった。


「ご飯なんてまだまだ、たくさんあるんだけどねえ」


とりあえず華蓮だけはその事実を知っている確信犯だっただろう。










人間になった人形

片翼の悪魔

赤翼の天使

王を捨てた人魚

愛に臆病なオオカミ女



世界が再び動き出そうとしている事に、この5人はまだ、気付いていなかった。









   地獄での邂逅


06/04/29