醜い鳥



そういえば、昔々の物語でこういう話があった。

かわいいアヒルの子どもたちの中に、1羽だけ、醜い子が混じっていた。
兄弟にいじめられ母親にも見放され、その子は泣いていた。

えーっと、その後はどうなったんだっけ……。
ああ、思い出した。


実はその子は白鳥の子で、成長して美しい鳥となりました。めでたしめでたし。

どんなに今醜くても、頑張れば将来絶対美しくなる、というお話。


でも、綺麗になるのは当たり前じゃないか。その子は白鳥だったんだから。
白鳥の子が白鳥になるのは、当然の事だ。白鳥の子はアヒルにはなれなかった。


アヒルとして育ち、白鳥へと成長したその子は、一体どういう気持ちだったんだろう。
白鳥になることが出来て嬉しかったのか。物語ではそうなっていたけど。

それとももしかしたら、アヒルになれなかったことに、悲しんだかもしれない。


アヒルと白鳥、どっちになったらよかったんだろう。
結局選ぶ事は出来なかったけど。


そうだ、結局選べなかった。
たとえアヒルの兄弟や母親に大切にされたとしても、いくらアヒルになりたかったとしても、醜い鳥は結局白鳥になったんだ。



それは、他のものでも同じだろうか。

アヒルが白鳥になれないように。
白鳥がアヒルになれないように。


人間は、人間にしかなれないというのなら。



ほんのちっぽけな人形が、人間になんてなれる訳―――



ああ、眠い。このまま眠ってしまえば、どんなに楽だろう。
このまま、眠ってしまえば……。


さあ、後はこの目を閉じるだけ。

光から目を離すだけ……。






そこは、目も開けていられない様な眩しい所でもあり、目の先に最早何も見えないぐらい暗い所でもあった。
上が下であり、右が左であり、前が後ろであるその空間の中心に、光があった。

とても小さな光であった。小さいうえに、今にも消えそうなほど淡い光。
その光が今、大いなる光に吸い込まれるように、奥深い闇に飲み込まれるように、儚く散ろうとしている。
しかしそこに、スッと何かが入り込んだ。


「眠っては駄目だよ」


声だ。まるで言い聞かせるかのように声が降ってきた。
周りにその丸い光が溶けてしまわないように、抱え込むように人の手が光を包む。


「その目を閉じてしまえば、君は消えてしまう」

 何?誰?


大きな光から、深い闇から離されたからか、光がフワリと震えた。光を包み込んでいるのは、黒い影だった。


「大丈夫、君がこうやって起きておけば、飲み込まれたりはしないさ」


不安げに揺れる光を安心させるためか、黒い影は微笑んだようだ。手元を覗き込んで、その小さな光を見つめる。


「んー……随分と成長したな。ここまでなるとは思ってなかった」

 え、何のこと?っていうか本当に誰?


光は幾分か元気を取り戻したように黒い影へと尋ねる。黒い影は、しばらく考え込むように唸ってから口を開く。


「君をよく知っている者、と言っておこうか」

 は?何それ?余計意味がわかんないよ。

「まあとりあえず、今必要なのは君、君の事だ」


激しく震えて抗議してくる光を黒い影は押しとどめた。
そして、改めて言う。


「ぼくは君を連れ戻しに来たんだよ」

 連れ戻しに?


光は揺れた。動揺するように。


 どこへ?

「そりゃあ、君の元へだよ」

 僕はここにいるじゃないか、他にどこに行くんだよ。


ふらふらと光は揺れる。同時に、明るさもどんどんと無くなっているように見えた。
そう、このまま消えてしまうかのように。


 もうほっといてよ。僕は眠いんだから、眠らせてよ。

「そうだな、眠いな。でも頑張れ、どうしても起きておくんだ」

 何でさ!眠たい時に寝ちゃいけないのかよ!


ピカリと光ってみせた丸い光に、黒い影は気の毒そうな、それでいて許しを請うような目をした。
その瞳に何か深い想いが感じられて、光は戸惑うように大人しくなる。


 な、何?

「すまない。きっと君は人一倍眠い事があるんだろうな」

 え?

「心が完全な形ではないから、ほつれた部分からもれたりするんだろう」

 ど、どういう意味?

「うん、それはとてもしんどいな」


黒い人影は、光の言葉なんて聞かずに目を離す。そして、どこかを見つめながら、


「しんどいな」


もう一度繰り返した。光には、黒い人影の言っている事がよく分からなかったが、やがてポツンと呟いた。


 眠い。

「それでも、起きなければならない」

 どうして?

「それは簡単だ」


黒い影は、光へと目を戻してきた。その瞳にもう、悲しみは無い。


「生きるためさ」


生きる。その単語に光はピクリと反応した。何かが目の前に浮かんだような気がして、それはすぐに消える。
まるで走馬灯のようだった。
走馬灯。ああそうか。あれ多分走馬灯だったんだ。


 駄目だよ、戻れないよ。


何かを恐れるようにブルッと震えた光を、黒い影は不思議そうに見つめた。


「何故だい?」

 だって僕、人間じゃなかったんだ。……人形だって。僕は人形なんだって。

「ふんふん。それで?」

 それでって……。戻れるわけ無いじゃんか、だって、人形だなんて、そんな。


震える光は、それ以上言葉が出なかった。
今思っていることを形にするのが怖かった。言葉にしてしまえば、自分がこのまま消えてなくなってしまうのではないか、と。
しかし黒い影はそんな考えをまったく無視する形でさらりと言う。


「ふむ、人形だったら生きてはいけないという事かい?」

 いや、だってさ、人形だよ?まず生きているのがおかしいじゃん。

「誰にだって何にだって命はあるさ。違うのは……眠っているか、起きているか。それだけだよ」

 それじゃあ、人形は全て眠ってるって事?だから、


光は、絶望的な気持ちで言葉を口にした。


 だから僕も眠いんだ。人形だから。


しぼむように小さくなっていく光を抱きながら、黒い影は首を傾げる。


「ん?確かに君は人形だった。しかし今は人間だろう?」

 ……あんたさ、あの話知ってる?何だっけ、醜い鳥の子の話。

「ああ、知ってる。絵本で読んだ」

 じゃあ分かるだろ?


絵本には突っ込まずに、光は続けた。


 白鳥の子はアヒルになれなかったし、アヒルの子は白鳥になれなかったよ。

「うん、そうだな」

 いくら望んだって、変わる事は出来ないんだ。たとえ、どんなに人間に近くても、


もはや小さな小さな光になってしまいながらも、それでも細い小さな言葉を紡ぐ。


 人形は、人形のままなんだ。



言葉が途切れた。急速に眠気が襲ってきた光は、今度こそ目を閉じようと思った。
この黒い影がいくら止めても、もう眠ってやる。こんなに眠いんだから、もう大人しく眠らせてくれ。
しかしそれは出来なかった。黒い影が何と、笑い出したのだ。


「ふふふ、あはははっ」

 な?!何でここで笑うんだよ!

「いやいや、すまない。少しおかしくなってな」

 ひ、ひどっ!こっちは真剣なのに!

「無論ぼくだって真剣だよ」


本当に憤慨した様子の光を、黒い影はやんわりと制する。そして、言った。


「醜く生きることの何が悪いんだい?」

 は?

「いいじゃないか、白鳥は白鳥になって、アヒルはアヒルのままで。生きていることに変わりは無い」

 ………。

「それに」


沈黙する光に構わずに、黒い影は言葉を止めない。


「眠る人形がいたのなら、起きている人形がいたって、いいだろう?」

 ……でも、でも違うんだよ、そうじゃなくて、

「ああ、まったく」


仕方が無いなあという感じに、しかし優しく見守るような目で、黒い影は言う。


「君は本当に、どうしても人間になりたいんだね」

 !!


光はグラリと揺れた。何かの確信を突かれたような気がした。まるで痺れたように何も言う事が出来ない。
そんな光を、おかしそうに黒い影が見つめる。


「昔からだよ。君は昔からずっと人間になりたかったんだ」

 ……昔……?

「そうさ。まだ君がこうやって言葉を出す事も出来なかった、ずっと昔から」

 ………。

「だから、人形じゃあ駄目なんだな」


人形じゃあ駄目なんだ、と、その言葉が己の中で響いたのを光は感じた。

昔、ずっと昔、出ない言葉を必死にかき集めて、叫んだ事があるような気がする。
長い時の中で、ただ1つ願った事。一度でも良いから、誰かに聞いてもらいたかった事。
言葉を持たない、眠る人形がその夢の中で、全てをかけて叶えたかった望み。


人間になりたい。


人間になりたい!



人間に、なりたい!



「大丈夫だよ」


そこには、いつの間にか光が満ちていた。ポツンとただ1つだけ浮いていた小さな光が今、命の光を放っている。
もう手の中には収められないその光を、黒い影は消えそうになりながらも微笑んで見つめた。


「君がまだ自分で気付いていないのなら、教えてあげようか」

 何を?


光を、眩しさを感じさせない瞳でひたと見つめ、黒い影が言葉を声にして、放った。


「命あるもの、全て望みを持っているだろう。だが眠るものはそれをただ望むだけだ」

 え?

「人はそこから歩き出す。人形は歩き出さない。歩き出すことが出来ない」


「最初の一歩を踏み出す事が出来た君は、つまり人形ではない」



「君は、人間だよ」





パチンと、何かがはじけた。強い眩しい光が目の前をサッと通り過ぎると、後は真っ暗だった。
しかしそれは闇ではない。光でもない。それは、黒い瞳だった。


「ん、戻ったか」


その声は、さっきの黒い影のものだった。しかし今目の前にいるのは、影ではない。黒い男だった。
何だか眠そうな目をして、満足そうにこっちを見ている。
男は大仰に頷くと、優しい瞳でこう言った。


「おかえり、あらし」



心の中を、醜い白鳥の子が美しいアヒルとなって羽ばたいていった。

04/12/17