空を歩く





「今日は空を歩いてきたよ」


外から帰ってきた死神がそんな事を言う。少年は目を丸くして死神を見た。


「本当?」
「ああ、本当だとも」


死神は無駄に偉そうに胸を張ってみせる。何を馬鹿な事を、と思うのだが、もしかしたら死神ならば本当に空を歩く事が出来るのかもしれない。
少年は否定仕切る事が出来なかった。それが何となく悔しかった。


「羨ましいかい?」
「……ちょっと、ね」


本当に空を歩いてきたのなら、正直言えばとても羨ましかった。ので、少年は素直に頷いておく。すると死神はにっこり笑って、外を指差した。窓の外に見える空は真っ青で、ついさっきまで雨を降らしていたとは思えないほどの晴れ模様だった。
雨上がりの空は普段よりいっそう光り輝いて見えるような気がして、少年は好きだった。


「それなら、行こう」
「へ?行こうって……どこへ?」
「もちろん、空を歩きに、だよ」


戸惑う少年の腕をぐいぐいと死神が引っ張り出す。その力にうっかり立ち上がってしまった少年は、そのまま死神に手を引かれて玄関まで辿り着いてしまう。いつもはのらりくらりしているくせに、こういう時だけやけに積極的になるのが死神だ。
靴を履くように促す死神に、ようやく少年は声を上げた。


「そんな事言われたって、僕は空を歩けないよ」
「どうしてそんな風に決め付けるんだい?」
「だ、だって……」


人間が空を歩くなんて、聞いた事がない。それならば死神は人間ではないのかと言えば、少年には答えられない。死神は死神という生き物なのだ(いや、生き物と言っていいのかどうかも定かではない)。
とにかく少年は絶対に空を歩けないはずなのだ。それなのに死神は首を横に振ってみせる。


「歩いてみようともしないで決め付けるなんて、いけないな」
「歩こうとしたら、多分死んじゃうよ」


靴を履こうとしゃがみこんだまま、少年はとうとうむくれてみせた。空を歩いてみせようと例えば屋上から一歩踏み出してみたとしよう。少年の脳裏には、そのまままっさかさまに地面へと落ちる自分しか想像が出来なかったのだ。
死神はそんな少年を見て笑いながら、再び手を差し出した。


「やってみなきゃ分からないさ。大丈夫、死んだりはしないよ」
「本当?」
「ああ。言っただろう、空を歩いてきたって」


自分が歩いたんだから、君も大丈夫だよ、と。死神は平気な顔で言う。歩けたのは死神が死神だったからじゃないかと思いながら、少年はしぶしぶ死神の手を取って立ち上がった。
死神の自信満々の表情を見ていたら、何となく空も歩けるような気分になってきたからだ。


「僕が死んだら責任とってね」
「もちろん」


しっかり頷いた死神はさっそく歩き出した。その後に続いて、少年も歩き出す。見上げた青空は、思わず歩きたくなるぐらいの蒼さだった。




「さあ、ここだよ」


死神が連れてきたのは、何の変哲も無い道だった。強いて言うなら、ところどころに雨が降った名残である水溜りがあるぐらいか。特に道の真ん中に広がる水溜りはとても大きなものだ。しかしそれだけだった。少年は思わず周りを見渡した。


「ここで空を歩けるの?」
「そうだよ」
「どうやって?」


少年が尋ねれば、にやりと死神が笑った。何となくむかついたので軽く蹴ってやる。おっとっととか呟きながら、死神はてくてくと真っ直ぐ歩き出した。行く手には浅く広い水溜りが広がっている。


「よーく見ていてごらん」


死神が歩みを止める事はなかった。あ、と思っている間に、少しの躊躇いもなく水溜りへと歩んでいってしまったのだ。靴が濡れちゃうよ、とか、どうして水溜りに、とか、一瞬のうちに少年は沢山のことを考えた。しかし全部、すぐに剥がれ落ちてしまった。
死神の言っていた事全てを、理解したからだ。


「空だ」


少年が呆けたように呟く。目が離せなかった。水溜りを歩く死神から。死神が歩く水溜りから。


「水溜りに空が、浮かんでる」


平らに広がる水溜りの水面はまるで鏡のように、真上の大空を写し取っていた。それはまるで地面へと落ちてきた空の欠片のようだった。その上を、気持ち良さそうに死神が歩いている。まるで、空を歩いているかのように。


「君もおいでよ」


死神が手招きをする。少年は慎重に水溜りへと近づき、おそるおそる足を踏み入れた。小さな波紋が広がって、水溜りは当たり前のように少年を迎え入れてくれる。その足元は紛う事無き空色だった。
見上げても空、見下ろしても空。少年は、空の中にいた。


「どうだ、言った通りだったろう」


隣の死神が得意げに笑う。いつもはこにくたらしく思うその表情も、今は本当に誇らしげに見えた。だから少年も、素直に頷く事が出来た。


「うん、死神の言った通りだ」
「そうだろう」
「僕は今、空を歩いているんだ」


足を踏み出すたびに空へ波紋が広がっていく。歩いても歩いても、少年が足を踏み外し空から落ちる事は無かった。靴が濡れるのなんて構わない。水しぶきが跳ね上がって冷たくても、少年は歩みを止めなかった。


「初めてだ、空を歩くなんて」
「ああ、自分も初めてだ、空を歩くのは」
「気持ちが良いね」
「気持ちが良いな」


死神と顔を見合わせて笑う。初めての空は、とても気持ちが良かった。水溜りの上の空をくるくると歩き回る。

青空と青空にはさまれて、少年は空を歩いた。
空色の波紋を広げながら、どこまでも歩いた。

08/08/27




 

 

 
















雨上がりの空が好きです。