「T」は深く考えない事にした。
普通の人間(に見えるからそう思う事にしよう)が闇に触って平気な顔をしていたってそれもまああり得ることなのだと。
だがしかし、さっき子どもが放った言葉にひとつだけ聞き捨てならない単語があった。


「ねえ、あんたさっき何て言った?」
「へ?」
「闇って何なのか今聞かなかった?」


子どもが否定してくれる事を期待して「T」は尋ねたのだが、子どもはあっさりと頷いた。


「うん、やみって何?これのこと?」
「そうだよどこからどう見たってこれは闇以外の何物でもないだろ頭おかしいんじゃないの?!」


「T」は信じられない顔で子どもを見た。子どもは首をかしげていて、本気で分からない様子なのだ。
普通の人間の子どもって、そういうものも知らないのか?「T」は心から呆れた。


「見たとおり闇って黒くて暗くて薄気味悪くて恐ろしくて気持ち悪いろくでもないものなんだから近づかないでくれる?」
「えっ」


「T」が親切に闇がどういうものなのか教えてやると、子どもはびっくりした様子で「T」の顔と「T」の闇を見比べた。
そうして、「T」の言葉を否定するように首を振ってみせる。


「うそだー、だってたしかに黒くて暗いけど、薄気味悪くも恐ろしくも気持ち悪くもないよ」
「……どれが?」
「これが」


これ、と子どもはまたぺたりと落ちている闇に触った。
普通の人ならそんな風に触れないんだけどね、と「T」は思ったが口には出さなかった。
どうやら世間知らずのこの子どもにそうやって説明しても納得はしないだろうし、「T」には分かったのだ。
この子どもは、普通の人間のカテゴリーには入らないのだ。


「はいはいもうそういう事でいいからさっさとあっちいってよ。ウザイんだよあんた」


話が通じないのでは仕方が無いと、「T」はさっさとこの厄介な子どもを追い払う事にした。もう話も聞かない心積もりだ。
子どもが顔を覗き込んでくるが顔を逸らして無視。肩を叩かれても無視。闇を触られても何とか無視。
もう何も反応しない「T」だったが、そんなの気にした様子も無く子どもが話しかけてきた。


「ねえ、さっき死ぬって言ってたじゃん。これこのまんまで大丈夫なの?」
「………」


「T」は返事をしなかった。ねえねえと尚も話しかけてくるが、聞こえていませんという意思表示に目を閉じて反応しない。
すると子どもの声が聞こえなくなって、ようやく諦めたかと「T」が安堵した時、背中になにやら温かいものが寄りかかってきた。
考えるまでも無い。子どもが事もあろうに「T」の背後に背中を預けてきたのだ。これには「T」もびっくりして反応してしまった。


「この馬鹿何やってるの?!」
「あ、起きた」
「寝てたわけじゃないよ無視してたんだよもう誰かどうにかしてよこの馬鹿お子様!僕は何しているのか聞いたんだけど!」
「お昼だから、お弁当食べようと思って」


隣町で買ってきたものだけど食べる?と差し出されてくるお弁当を「T」は首を大きく振って拒否した。しかし箸が勝手に近づいてきた。
食べないと言ってるのに卵焼きが「T」の口元に運ばれる。


「はい、あーん」
「食・べ・な・いっって言ってるだろこのスカポンタン!むぐぉっ?!」
「好き嫌いすると大きくなれないってマスターが言ってたよ」
「まむがむごんぶぁー!」


「マスターって誰だよ!」とつっこみいれたかった「T」だったが、予想以上に大きな卵焼きを口の中に放り込まれて言葉にならない。
その後も反論しようとする口の中に次々とお弁当の中身をつっこまれて、結局「T」はお弁当を子どもと半分こする事となった。
色んな息切れで「T」が地面に倒れ付しながらぜえはあ言っていると、再び子どもは闇に触れてきた。


「止まらないねえ」
「……もしかして腹ペコで闇垂れ流してると思ったわけ?この世紀末馬鹿は」
「バカバカ言うなってばー」


食べ物を摂取したというのに疲れきった「T」は胡乱な目で子どもを見た。子どもは何事かを考えながら闇にべたべた触れている。
どうやらこの子どもは「T」の闇を止めたくて仕方が無いようであった。とても厄介なものに捕まってしまったものだ。
深く大きくため息をついた「T」は、その時気付いてしまった。
自分の闇が、さっきと様子が違う事に。


「……嘘でしょ……」
「どうしたの?」


子どもが俯く顔を覗き込んできたが、返事を返せる余裕も無かった。「T」の心の中は絶望でいっぱいだったのだ。
今まで死ぬほど垂れ流されていた闇が、「E」が死んでから流れていくだけだった闇が……どういう訳か、留まっているのだ。
消える事無く流れる事無く、「T」の周りで留まっているのだ。
これではもちろん死ぬ事は出来ない。


「何で……?!どうしてだよ!今まで流れてたのに、何でいきなりんな事になってるんだよっ!」
「だ、大丈夫?どうしたの?」
「うるさいっ!」
「あでっ」


「T」がめちゃくちゃに手を振り回したので、弾き飛ばされた子どもはゴロゴロと向こうに転がっていってしまった。
その時、自分の闇が動いた事に「T」は気がついた。子どもが遠くにいった事によって反応した闇に。


「あいつが……?」


信じられない気持ちだった「T」は、昔誰かに聞いた言葉を思い出した。「E」だったか「P」だったか、それとも「C」だったか。

闇は、時間に引き寄せられることがあると。
長い長い「時」にしがみついて、寄生するように生き残るのだと。
「T」が「E」によって闇を抑えていたのは、「E」が生きてきた長い「時」のお陰なのだと。

その闇を抑える長い長い「時」を、確かに「T」は感じ取った。目の前にいるのはどう見たって子どもだが、確かに感じ取った。
この「時」によって「T」の闇は抑えられているのだ。「E」以外はもってはいないだろうと思っていた、「時」だ。
この子どもが、「T」を生かしている。


「……あいつのせいで……」


あの子どものせいで死ねない。この世界を捨てて安らかに死ぬ事ができない。「T」の中に激しい怒りが沸き起こった。
怒りのまま、地面に転がる子どもにとっさに飛びかかろうとした「T」だったが、すぐにやめた。
子どもに何故か闇は効かないし、体力的に劣っている引きこもりの「T」では子どもに返り討ちにあってしまうだろう。
(それも本望かもしれないが、何となく悔しい)
沸き起こった怒りもすぐにしぼんでしまった、今「T」に残っているのは絶望だけだった。


「何でだよ……今まで醜く惨めに生きてきて、そして今ようやく死のうと思ったのに、何で死なせてくれないんだよ……」
「……どうして?どうして死ぬなんて言うんだよ」


「T」がうなだれていると目の前で声がした。顔を上げるとさっきの子どもが立っている。その表情がさっきと違って「T」はびっくりした。
さっきまであんな能天気な顔をしていたのに、今はひどく怒った様子だったのだ。


「せっかく生きてるのに死ぬなんて、そんなもったいない事言うな!」
「な……?!」
「生きたいのに生けない人だってたくさんいるんだぞ!生きる事は生きてる間しか出来ないのにそれなのにそんなもったいない事言うな!」
「いたっいたたたっやめろよ馬鹿っ!」
「バカバカ言うなー!」


めちゃくちゃに殴りかかってきた子どもに「T」は必死の思いで抵抗した。同じように手を振り回して、子どもに応戦した。
しばらく2人はもみくちゃになって争っていたが、やがてどちらからともなく力尽きて地面に転がった。
息の乱れる中で空を見上げた「T」は、空が青いなあとそんな当たり前な事をふと考えていた。


「け……」
「け……?」
「喧嘩したの……僕初めてだ」


同じように地面に転がった子どもがそんな事を言うので、変なの、と「T」は思った。
何故だか分からないが長い「時」を持っているらしい子どもが今まで生きていて喧嘩が初めてだなんて、変だと思ったのだ。
それを言うなら、今まで長く生きてきた「T」だって、こんな喧嘩は初めてだった。なので口を開いた。


「僕もだよ……」
「ほんと?!」
「こんなみみっちくて幼稚で恥ずかしい喧嘩生まれて初めてだ」
「ううっうるさーい!」


怒鳴ってきた子どもは、ふと楽しそうに「T」の顔を覗き込んできた。「T」は嫌な予感がしたが、逃げようとは思わなかった。


「ねえ、名前何ていうの?」
「……僕に名前なんてないよ」
「え、無いの?」


「T」の言葉に子どもは目を丸くした。「T」はため息を吐いただけだった。
「T」の呼び名は仮の名前だった。名前は闇じゃない他の人からつけて貰ってねと訳の分からない事を言われてからずっと仮の名前しか持ってなかった。
引きこもりの自分が他の人につけてもらえるわけがないじゃないかと思ったが、名前なんてどうでもいいものだと思っていた。
だけど今少しだけ「T」は、名前が無いとは寂しいものだなと無意識に思っていた。それに気づく事はなかった。


「仮の名前で「T」とかあるけどね……「禁忌」の文字から頭をとったアルファベット」
「きんき?何で?」
「こんな闇垂れ流しの奴禁忌以外の何者でもないだろ馬鹿じゃない?」
「またバカバカ言った!」


「禁忌」なんてつけずに、失敗作が出来た時点で破棄すればよかったんだ、と思ったが、「T」は口に出さなかった。
口に出せばまたこの子どもと喧嘩する羽目になるからだ。あんな疲れる事、一回で十分だ。
子どもはしばらく考え込んだ後、名案を思いついたような晴れやかな顔で言った。


「じゃあ「タブー」!「T」をとった言葉って「タブー」でしょ?何か可愛いからそれでいいじゃん!」
「うわー皮肉。皮肉な名前つけられたー結局「禁忌」とかつけられたー死にたい」
「ちっ違うよ響きがよかったんだよ!タブーって可愛いじゃん!」
「間抜けだよ馬鹿!」


怒鳴りながら「T」は自分の中に不可解な熱が生まれた事に気がついていた。それは怒りでもなく悲しみでもなく絶望でもない心だった。
「T」には生まれて初めてのその気持ちが何なのか分からなかったが、1つだけ分かった。
自分の名前は、今日から「タブー」となってしまった事。不可解なこの心の熱がそう決めてしまった事。
何だか痛くなってきた頭を抑えながら、タブータブーと嬉しそうに言ってる子どもに「T」は口を開いた。


「で?」
「……へ?何が?」
「人に勝手に変な名前つけといてあんた自分の名を名乗らないつもり?どういう礼儀知らずだよ、親の顔が見てみたいね」


「T」の言葉に一瞬ポカンとした子どもは、ものすごく嬉しそうな顔で笑った。笑ってこう言った。


「僕の名前は……―――」





ああ、あの時、あの子どもは何と言ったっけ。
「T」改め「タブー」は考えた。変な子どもと出会ってからさらに何年か経ったある日のことだった。
あの後タブーを外に飛ばした闇の仲間達に見つかって強制連行されてから子どもには会ってない。ずっと城に篭りっぱなしだったからだ。
闇の溢れる城の中では「時」が無くともタブーの闇を抑えてくれた。だから引き篭もっていた。
だがしかし、そんなタブーの居場所は崩壊した。約一年前ぐらいに。調子に乗った闇の一族を懲らしめにきた光の人間達によって。

引き篭もっていたおかげで何とか生き延びたが、それももうすぐ終わるだろう、とタブーは思っていた。
約一年。よくもったと思う。よく死ななかった。神様って残酷だ。死にたいと思えば思うだけタブーに生を与える。
それもようやく終わるだろうと思っていたのだ。とうとう己の中の闇がなくなり、光の中に溶けて消えるだろうと。
今まで岩の物陰に潜んでやり過ごしていたが、それも終わる。タブーは目を瞑った。そこに声が聞こえたのだ。


「……おい見ろよシロ、こんな所にこんな真っ黒いやつが倒れてるぞ!おいお前大丈夫か!」
「本当だわすごく真っ黒な人が倒れてる!みんなー!あらしウミカレンー!クロが変な黒い人見つけたわー!」


ああ。タブーは絶望した。誰かに見つかった事に、ではなく、今その誰かが呼んだ名前の中にあの子どもの名前があった事に。

どうやらタブーはまたしても死ねなかったらしい。



07/01/16



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