雨が降る。辺りの喧騒を沈めるように静かに、しかし重く空から垂れ落ちてくる。傘の端からも、涙のように雫が落ちる。
けど、俺にはそんな雨は不要だ。何故なら、俺の周りには喧騒の欠片も見当たらないほどの静寂があるだけだからだ。
道を1本変えるだけで、この街は姿を変える。人間と同じように。
何て変わりやすい世界なんだろう。だから人は昔を振り返り、懐かしむのか。それがどんな過去であろうとも。
駄目だな。何か感傷的になってるぞ俺。この雨のせいか。さっきの別れ話のせいか。
…本当、人の心って、変わりやすいんだな…。
そんな時だった。
1人、別次元の生き物のようにそこに存在していた、あの女と会ったのは。
黒子と俺の出会い
そいつは道の端っこで、電柱に隠れるように蹲っていた。雨が降ってるのに傘も差さずに、だ。
しかも酷い薄着だ。こんな天気の中黒いワンピース一枚着ているだけだなんて。その状態で膝を抱えて蹲っている。
俺がそいつに目を留めたのは、そんな格好で道の端に存在していたからというのもある。
だけど多分、足を止めたのはそんな理由ではなかった。
おそらく肩まで伸びていると思われる、真っ直ぐな黒髪。
(雨にぬれていなくても、それはとてもしっとりとしているに違いない)
まるで病人のような、透き通る白い肌。
(日に透かしてみたら向こう側が見えるんじゃないだろうか)
そしてどこをそんなに見つめているのか、闇色に輝いている大きな瞳。
(信じられるか?黒目なのに、その目は輝いていたんだ)
整ったその横顔は、街中ですれ違ったら何人かが振り向くだろうと思われる、それほど綺麗なものだった。
俺は知らず知らず、その女に近づいていった。女は、俺が横に立ってもこちらを見ようともしない。
ただ、まっすぐにどこかを見ているだけだ。
「何やってるんだ?」
気づけば話し掛けていた。もっと別な聞き方もあっただろうが、するりと出てきた言葉だったのだから仕方がない。
女は、ここで初めて俺を見上げてきた。やっぱりその瞳は、真っ黒なのに光り輝いている。
いきなり見られたからだろうか、俺はその目に射抜かれた途端、頭がくらりとした。
女は一言だけ、はっきりとこう言った。
「存在しているの」
しばらく固まった。この女、実は精神に異常でもあるんじゃないかとさえ思った。
こんな日に薄着で蹲ってるし、いきなり訳のわからない事も言うし。小学生の頃、冗談で「息してる」と答えたことはあるが。
しかし…俺はそれより、こんな雨の中でも凛と響いたその女の声に固まっていた。
やばい。この女は電波を発していて、俺は今その電波に頭を侵食されているんだ。そうに違いない。
これ以上侵される前にここからすぐさま立ち去らなければ。
だが、できなかった。まるで女の視線に捕らわれてしまったかのように俺の足は動く気配を見せない。
いや、実際捕らわれてしまったのだろう。恐ろしい光だ。この女はその視線1つで、通りすがりの1人の男を捕らえてしまった。
捕らわれて、どうやら逃げ出す事は出来そうになかったので、俺は女に手を差し出した。
「来い」
まるで誘拐犯の言葉みたいだと思いながら、それでも手は差し出したまま。
女は俺の手を見ている。そして、俺の顔を見てもう一度手を見つめてから、俺の手をとった。
女を引っ張り上げた瞬間、俺の体には電流が走ったような衝撃があった。
ビリビリと痺れるような…でも別に痛くはない、妙な感じ。今のがこの女の電波なのか。
電波に頭を侵されたのか、その瞳に捕らわれてしまったのか、俺は女の手をとって家路につく。
ああ、きっと失恋の痛みに、心がおかしくなってしまっているに違いない。
濡れた女の細い手は、頭上から降ってくる雫と同じように冷たかった。
雨がやんだら、この手を離そう。
だけどそれまでは、それまでは それまでは……
翌朝。外は変わらずザアザアと音を立てて俺を部屋に閉じ込めようとする。
ボーっと窓の外を見つめる俺の隣では、昨日思わず連れて帰ってきた全身真っ黒な女が膝を抱えて座っていた。
その視線は、古いテレビに釘付けだ。
今日晴れたら、こいつを家に帰そうかと思っていたのだが。
この雨の中女1人追い出すわけにもいかずに、俺は俺の部屋に女を入れたままになっている。
頭のどこかで、この雨がやまないようにと祈っている己を、自覚しながら。
これは俺の弱い心が、人のぬくもりを求めているだけだ。
昨日、こっぴどく振られたからだ。彼女の代わりをこの女に求めているのか。なんて最低な男だ。
念のためにと、女にもそういう風に言っておいた。無いとは思うが、妙な誤解をされないように。
すると女はこう言った。
「そう」
しかもテレビを眺めながら、だ。こっちに目線を合わせようともせずに、ただ一言。それだけ。
やっぱり少なくとも、こいつは変わった女だ。いや、変わった人間だ。
とりあえず腹がへったので、冷蔵庫の中身を見るために俺は立ち上がった。
「何か食うか?」
女にそう尋ねると、女はやっぱりこっちを見ようともせずに答えた。
「さんま」
意外に庶民的な答えだ。あれはごはんと一緒に食べるのがいい。俺も結構好きだ。
しかし1人暮らしの冷蔵庫にそんなものあるはずもなく、とりあえず俺は煮干を準備し始めた。
女は、ただじっと膝を抱えてテレビを見ていた。
ご飯の上に煮干を乗せただけの昼飯を食べていたとき、ふと、俺はこの質問をまだしていなかった事に気づいた。
まさかこんな風に一緒に飯を食う事にまでなるとは思っていなかったのだ。世の中不思議だ。
「お前、名前は?」
俺の当然の質問に、煮干をかき込んでいた女は顔をあげた。昨日射抜かれた光が、そこにある。
「俺は修司。昨日振られたばっかりの寂しい男だ」
「シュウジ…修司」
女は確認するように俺の名を呟くと、またもそもそと煮干ご飯を食べ始めた。
煮干をほおばる女をしばらく眺めた後、俺は慌ててもう一度尋ねた。
「いや、名乗られたら普通名乗り返すもんだろ。お前の名前は?」
「…名前…」
お椀を持ちながら、女はしばらく俺の顔を見つめた。どうやら何か考えているようだ。
と思ったら、すぐに一言返してきた。
「無い」
「いや、無いって」
「無い」
煮干を食べながら答える女を、俺は呆れながら眺めた。顔にかかるまっすぐのあの黒髪は、邪魔ではないのだろうか。
「じゃあ何て呼べばいいんだよ」
いつまでも女、女、ばっかり言ってても失礼だろう。呼び名ぐらいは決めておかねば。
…あれ?これじゃあこの女とまだ一緒にいるのが決定しているみたいじゃないか。
この雨がやめば、今すぐにでも他人になる関係だというのに。俺はまだ電波に侵されたままなのか。
女は、煮干を食べる箸を少しの間だけ止めた。
「あなたが、名前付けて」
「…は?」
とうとう耳まで侵されたか俺。いくらなんでも、見ず知らずの男にいきなり名前決めろだなんて…。
しかし女は、そんな俺に関係なしにその凛とした声で俺の耳を、脳を侵していく。
「あなたが、付けて」
そんないきなり名付け親になれと言われても。残念ながら俺にはネーミングセンスというものがまったく無い。
犬ならポチ、猫ならタマと堂々とつける男なんだから。
「俺が、お前の名前を付けろって?」
「そう、付けて」
付けてって…。女は、俺を追い詰めるように俺から視線をそらさない。さっきまで煮干を食ってたくせに。
「……………」
「……」
俺と女は見つめあった。いや、俺は睨みつけるように、女はそれが当たり前のようにただじっと、相手を見る。
そうだ、こういうのは第一印象から持ってくるのがいい。名前というのは直感で決めた方がいいんだ。
この真っ黒な女の、第一印象は…。そして、そこから思いつく名前は…。
「黒子…」
「くろこ…」
すいません。後悔。やっぱりネーミングセンスのない奴が直感で名前を決めるべきではない。
何だ黒子って。黒い子か。確かにそのまんまな名前だ。第一印象から俺はそのまま名前を持ってきてしまったようだ。
黒子って「ほくろ」とも呼べるんだぞ。考えれば考えるほど最低な名前じゃないか。
思わず頭を抱える俺に、女はさすがに文句を…。
「わかった、黒子、ね」
「そうだよな、さすがに黒子はなぁ…って、え?!」
俺は身を乗り出していた。しかし女は、顔色1つ変える事無く、きっぱりと言う。
「名前、ありがとう」
ありがとうって。黒子でお礼言われてしまったぞ俺。
何てことだ…今からこの女の名は「黒子」になってしまった。
固まる俺の前で、黒子は平然と煮干ご飯を平らげていった。
夜になっても雨はあらがない。まるで黒子をこの部屋から出さない檻のように、絶え間なく降り続ける。
雨の音を聞きながら、俺は布団の上に転がっていた。毛布は無い。黒子に貸しているのだ。
少し顔を横に向ければ、毛布に包まった黒子の背中が見える。長い真っ黒な髪が床に散らばっていた。
背中もどことなく色っぽいなーと思う俺はやっぱりもう駄目だと思う。
「修司」
背中を向けたまま黒子が俺の名前を呼んできた。なんだ、起きてたのか。
呼ばれたからには、返事を返さなければなるまい。
「何だ、黒子」
返事を返しながらやっぱり後悔。もっとかわいい名前にすれば良かった。美人によく似合うような名前。
まあ黒子がこれでいいって言うなら、俺は何も反論することができないけど。
黒子は、体を反転させて俺に顔を向けてきた。暗闇の中でも目の光が消えない。この目発光してるんじゃないか?
「何で私をここに連れてきたの?」
真っ直ぐな瞳でそんな事言われたら、まるで俺が誘拐してきたような気分になる。半分はその通りかもしれないが。
しかし、何で今さらそれを聞くんだ。昨日、それこそこうやって寝た時言えばよかったんじゃないか。
天気予報で、明日が晴れると言っていたからだろうか。
黒子は、この雨がやんだらこの部屋から出て行くことを、知っているのかもしれない。
黒子に見つめられて、俺は困っていた。何と言おうか。ただなんとなく、なんて言える訳がない。
大体俺にだってわからないんだ。何でこいつを連れて帰ってきたんだろう。
そう考えていたら、するりと言葉が出ていた。
そりゃあもう、普通に、流れるように。
「俺が黒子に一目惚れしたからだよ」
俺は俺の言葉を聞いた瞬間。理解した。
そうだ、俺はあの時、確かに黒子に一目惚れしたのだ。
雨の中の真っ直ぐな黒髪、対照的に真っ白な肌、そして、輝くような光を放つあの瞳に。
一応言っておくが、これは昨日振られた事とは関係ない。
きっとあの時振られていなくても、俺はこうやって黒子を連れて帰っていただろう。だって、一目惚れだぞ?
一目見ただけで惚れてしまったのだから、これは理性がどうのこうの言う問題ではない。俺の本能だ。
俺は本能で黒子に惹かれたのだ。脳が電波に侵されるように。
とりあえず俺は、黒子が何か言うのを待った。俺は、言うべき事はもう言ったからだ。
後は黒子の言葉を待つだけだ。黒子の言葉で、全てが決まる。
黒子がうっすらと口を開いた気配がした。
「私には、帰るべき家はないわ」
「……」
俺は黙ったままだ。今は黒子が喋っているからだ。俺は、それを聞く番だ。
「だから私、ずっとふらふら歩いてた」
「ずっと?」
「そう、ずっと」
「そうか」
「その間に、色んな人から声をかけられたわ」
「……」
「でも、誰の言葉も聞かなかったし、もちろん誰にもついていかなかった」
「…え」
「何?」
「だって、黒子、お前」
俺は何故かうろたえていた。だって、俺が黒子を連れてきたときの事を思い出して欲しい。
あんなにあっさりと、俺の手を掴んだんだぞ?こいつ。
俺とは対照的に、黒子はやっぱり表情を変える事は無い。
「だって、初対面の見ず知らずの赤の他人だもの。ついていくはずがないじゃない」
「いや、確かにそうなんだけど…」
じゃあ、何で、俺についてきたんだ? なあ、黒子。
黒子は、俺の心の中の問いに答えた。
「私も、修司に一目惚れしたの」
「……は?」
ここで間抜けた声をあげてしまった俺を許して欲しい。
自慢できることでは決してないが、俺は生まれてこの方女の子にもてた事は一度だって無い。
顔は、良くも悪くもないと自分では思っている。頭も良い方ではない。性格もこの通り、貴公子とは程遠い。
もちろん、一目惚れされた事なんてある訳なかった。
「あのな、俺が良い男に見えたのか?」
「いいえ」
「だよな?そうだよな?じゃあ何で」
「一目惚れに理由なんてないわ」
……やられた。何だかやられた。
そうだ、一目惚れに理由なんてないじゃないか。俺は身をもってそれを知ったばかりじゃないか。
それにしても、一目惚れ同士だなんて…何だこれ、何のラブコメだ。
「修司」
「何だ?」
「私、家が欲しい」
可愛いあの子からのお願い。何だ、そんなもの。お望み通りにくれてやる。
「黒子」
「何?」
「………」
「今度、パジャマを買いに行こう」
「………、うん」
神様とやら、今なら、運命の出会いとか信じてやる。だから、
明日、俺たちに、晴れやかなる青を。
04/08/07
今回書きたかったもの。「黒子」「修司」「意味の分からない恋愛」
シュールな間柄。